娘。的思考

部活は娘。と似ているところが大いにあると思う。必ず卒業(引退)する人がいて、加入する人がいる。いつも新しい形で戦っている。卒業や加入は単なる人員の増減を現すのではなく、構成員の成長を否が応にも促す。いわゆるエースは、その成り立ちにおいて、実力云々の問題ではない。
娘。において、いなくなったメンバーを回顧したりすることはおそらく意味の無いことで、というのは、常にそのときのメンバーで臨むしかないからだ。逆に言えば、いったん娘。を離れたメンバーは、再び娘に帰って娘。のように振舞ったり新たな役割を見つけることは可能性としてゼロである。ハローとかで共演することはあっても、それは娘。と"非"娘。であり、"現"娘。と"旧"娘。であるため、娘。としては括ることが到底できない。
なっちやごっちんは確かに娘。のエースであったし、その彼女たちを取り巻く状況は非常に魅力的であった。辻加護もやはり、異彩を放っていたと言える。しかし、それを懐かしんでよかったころを取り戻そうとすることは、彼女たちの今をも否定する行為である。彼女たちの実力を認め、今の娘に足りないことを認めることは正しく、どうすればよりよい娘。を見ることができるか考えることは有益だが、決して斯の姿を再び得ようと、現在の娘を強いてはならないのであると考える。

部活も一緒で、引退した人・辞めた人・入部した人さまざまに存在する中、今現在に部活を構成する人において最良の形を、過去を『参考に』しながら模索していくことこそ、必要なことだと思う。過去を懐かしみ、そのころの栄華をそのころの形を模して得ようとすることは、決してしてはならない「禁忌」であると考えるのだ。いなくなった人の穴を埋めるのではなく、今現在に役割を果たしている、彼・彼女らをサポートするべきだと思うのだ。
ややもすると、そういった禁忌行為は、卒業していった諸先輩に対する侮蔑とも取れると私は思う。